義衍老師語録提唱

◆意根を坐断(1)
 
 本文
 
 意の根というものがある。それがどうしても取れない。それは子供の時、知らんうちに思い込んで、その思い込みを育ててきたんじゃからどうしようもないんです。迷ったことを知らんのですから、それを取り除く方法がわかりようがない。それを釈尊が本当に徹見せられた。お茶を飲んだら茶の味がする。これが釈尊の到達された境涯です。
 救われている、成仏しているご自分の様子をごらんになって、人々を救う道はここにある、救われる道はこれ一つ、他に救いようがない。(次号へ)
 
 提唱
 
 人は自分というものをしっかり持っています。疑う余地もないほど。
でもその自分とは何処に在るのでしょう?この体を医学的にどれだけ刻んでみても、これが自分だという芯らしいものは出て来ません。
 知らないうちに思い込んで、その思い込んだ自分を育ててきた。可愛がることをしてきた。そして可愛がるのと同時に苦しみも生まれ、可愛がれば可愛がるほど苦しみも増していく。
 今度は、その苦しみから逃れたいと言って、また自分を可愛がることをして苦しむ。 
迷いの根を知らないから、どこまでも苦しみの連鎖は続いてきます。
 その苦しみの連鎖、迷いの根源を徹見せられたのがお釈迦様です。
 自分を可愛がるという人の考え方から離れ、ご自身の様子を静かにごらんになった時、自分という思い込みの自分であることを見極められて、既に救われている自身に出会われた。
 お茶を飲んだら、お茶の味がする。そんな当たり前のことと言うかも知れませんが、ここに自身が救われている真相がある。

◆意根を坐断(2)
 
 本文
 
 どんなに世界の人がジタンダ踏んでみてもどうしようもない。それはいつも云うように、理性に訴えて、そして理性をもって整理してみても、自分が整理したことまでみんな知っておる。それだ
からどうしようもない。見えないものを見たように作ってみせても、それまで自分が知っておる。 自分を自分でごまかせない。人間は基本的にそこまで正直であるのだが。そういうところに本当に人類は苦しんでいる。苦しみの根源はそこにある。
 それを根本から救う道が仏道である。自分自身に正直であれば必ず忘自己の時節はある。徹する。

 提唱
 
 閻魔大王のお話しはご存じでしょうか?亡くなって五七日目に閻魔大王の裁きを受けるというお話しです。 その裁きには閻魔帳が使われます。閻魔帳には生前の罪や善行まで全て書いてあります。その行いによって行き先が変わってきます。
苦しみの世界なのか、苦しみの無い世界なのか。
 裁きでは質問があり、問われたことに正直に答えないと舌を抜かれてしまいます。閻魔大王は嘘が分かります。それは大王が持っている鏡に全てが映し出され、正直に答えているかどうかが分かるからです。そして、この場においてまだ嘘という罪を犯すような者は、苦しみの世界へと送られてしまうというお話しです。
 実は閻魔大王とは自分自身のことなんです。自分には絶対に嘘がつけない。
 修行において大切なのは、考え方で整理して自分で自分をごまかさないこと。たとえ整理したって本音は違うのであれば、本当は解決していない。
 「気にしない」と言って「気にしている」自分に正直になって、本当に「気にならない 」ようになったら本当の解決です。苦しみの無い世界なんです。
◆今という生活(1)
 
 本文
 
 見ずに、美しいと言わないで下さい。聞かないのに、つまらない言わないで下さい。
 私達はいかなる立場であれ、どの様な状態に置かれていても、今という生活の欠けている人は居りません。皆必ず今という生活の上で生きております。この片時も離れることのない自己の身心の所在です。
 これを現成といいます。
 すでにあるんです。好き嫌い善悪をいう前に。 それを受ける、それと出会う、それと共に時を同じくしたり、場所を同じくしたり、人を同じくして生きています。
《次号へ続く》

 提唱
 
 新年を迎えました。もうすぐ母の一周忌です。一年なんてあっという間ですね。
 昨年も母をはじめ何人もの方をお送りしてきました。その中でいつも言えるのは、人の死というけれど、そのことは正に自身の今の生活のまっただ中のことなんです。一方では人が死んだという相手のことなんですが、一方ではその一部始終は皆、自分自身の生きている内容なんです。時も場所も状況もみんな親しく自身のこと。必ずこの身のあるところのことであり、この身のあるところの時間のことなんです。どのような状況であっても。
 いくつもあることのひとつ?世界の中のほんの一部のこと?人生の僅か一コマ?それは人の考え方。この身はそんなふうに生きていません。考え方に傾くと、いろんなことがあるように感じて落ち着かないですね。心がザワザワしてきます。自身の所在が解らなくなるから。
 時間だって場所だって今この身のあるところを除いては味わうことが出来ないものばかり。そこに静かに心を向けてみる。
 本物にはかなわないんです。心も体も。

◆今という生活(2)
 
 本文
 
 ここに公案といわれる逃げもかくれも出来ない立場での一人一人のあり方があります。相手にせざるを得ない、他人ごとでは済まされないあり方が公案なのです。
 「あなたならどうする」考えて考えてどうにもならなくなった時でも、この私からは逃げられない。そのような中にあって、道元禅師をはじめ祖師方はどうしたのだろう。間違いなく考える前にある事実を考えでなく事実に率直に学んでみたのです。自分の見方を使わずに。それが非思量といわれるすごし方です。これがないと、坐禅は蝉のぬけがらになってしまいます。現成公案は、だれしもの抜きさしならない今が、私達が思っているようなものかどうか、もう一度自分自身の上で確かめることです。

 提唱
 
 3月、お彼岸の月を迎えました。
 先日、娘が仲良くしていた中学時代の友達の父親が事故で亡くなりました。娘からそのことを聞いた時、現実とはなんて無情なのかと大きな衝撃を受けました。何度も我が家に遊びに来たり、部活の帰り、同乗するその子をよく自宅まで送って行きました。その子の悲しみや辛さを思うと、何とも言い様のないやり切れない思いでした。
 でも、母が亡くなった時もそうでしたが、人はどんな状況の下でも、思いとは関係なく今ある事実に即しています。受け入れても受け入れなくても間違いなくあり、良くても悪くても絶え間なくそれはあります。そしてそのことは、この身(私)と隔てた向こう側にある人や物や出来事ということではなく、この身(私)もその中にあっていっしょになって生活しています。この身(私)とは切っても切れない、こっち側向こう側という区別出来ないとても親密な関係で成り立って居ます。
 「見える」「聞こえる」というこの身(私)と触れあうところの温もり。これを非思量といいます。
 
◆更に向かう処なし(1)
 
 本文
 
 坐禅をする時の心がまえというのは、内からも外からも、何がどうあろうとも、それを善いとか悪いとかいって手を付けずに、そのまま捨てておきなさい。ただそういうことです。 
それをやりますと、次第にあっても気にかからぬようになる。
 気にかからぬようになると穏やかになって、ただ事柄のみが在るようになる。
 まだ事柄を知る自分がありますけれども、そういうものまでも、やがて何処かにおいて本当にということ、自己を忘ずるということがあります。
 そういう縁を結ぶということがある。

 提唱
 
 今週は梅雨らしい天候でした。
 先日、ラジオでスメルハラスメントのことを言っていました。今やいろんなことに対して敏感になっている人が多くなっているようです。自分にとって気に入らない、不快と感じたものに対して、ハラスメント(いじめ、嫌がらせ)だと訴えることは、一体どこまでいくのでしょうか。
 考えてみれば、世の中のこと(人や物事)は自分が気に入るものの方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
 外側にあるものに対して善し悪しを言い始めたら本当にきりがない。善し悪しを言えば言うほど心は穏やかさを欠いていく。そうして対立するもの、不平や不満は自分の中に増幅されていく。そういうことが分かるから、まず事実を知るという必要がある。この身とそして周りにある事柄の正体を知る必要がある。
 だから坐禅では、今まで自分が扱ってきた善し悪しという物さしを置いて、ただそのままに過ごしてみる。そうすると、自分が今まで認識していた事柄とは違う、その正体に気がつく時節が必ずある。

◆更に向かう処なし(2)
 
 本文
 
 その後も、ただ縁に触れて動いているのみにして、別に問題がないということがありますから、悟る前の様子と悟って後の様子が、いっぺんにに完成するような方向で弁道してもらっているということです。
 祖師方は皆、そういうふうにされて来た。
 何の為ということはない。赤子は何の為に食べるのか、見るのか、泣くのか、動くのか、大小便をするのか。目的がなければ生きがいがないのか、嫌気や、いい加減にしかしないのか、不足があるのか。
 更に自己を立てて向かう処がない。大人は思うことを縁として邪推するから迷いの元となる。赤子は堂々とこれをやってのけている。

 提唱
 
 坐禅をして今の自分を見直したり、変えていこうとする、そういう目的で来られる方がほとんどです。今の自分に満足していないからそういうふうに思うのでしょう。しかし、坐禅は今のその満足していないと思っている自分を丁寧に見てみることをするのです。
 なぜそういうことをするのかというと、満足していないと勝手に思っている今の自分の生活かも知れませんが、赤いものに向かえばその赤い色がその通り見えて、音声に触れれば大きさや方向、何の音なのかさえその通りに分かる。これはどういうことなのか。私たちは満足出来ている様子もちゃんといただいているということです。
 人は何の為に生まれて来たのでしょう。目的を持って生まれて来たという自覚のある人は一人もいません。それは後で人が付けたり思ったりしたこと。元々何も持たずに誰しもが生まれて来ました。ただ、今触れる縁のみを等しく戴いて。
 生まれて来る前の様子、人の根源は、人の欲求としての満不満を越えて、満足のいく出来映えがある。そのことに、他ならぬ自分が自分の内容に気付くこと。
 

◆任せる(1)

 本文
 
 任せる。「任せる」ということは、自分の方から何かをすることではないのです。
 (手を叩いて)「ポン」これが耳に任せたという状況です。「ポン」これは耳に任せているということです。音がするだけです。
 聞くとか、特別何かをするような気配はない。耳という道具自体に任せるということは、このように音がしたから聞こえるだけです。
 六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)というこの道具立て自体に全部任せてしまえばいいのです。
 道具立てというのは、この身体の機能のことです。眼は、ものが見えるように出来ている。耳は、音が聞こえるように・・・

 提唱
 
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。
 元旦の朝、本堂での朝課の後、阿弥陀堂でのご祈祷を終えると、ちょうど朝日が見えるところまで昇ってきます。
 今年も神々しい朝日を拝み、いよいよ新年が始まりました。 
 しかしながら、新年になって何が変わったのでしょう?確かに意識の上では年が改まったということはあります。でもいつだって吸う息も吐く息も常に新鮮で、見えることも、聞こえることも真新しい生活をしているのも事実です。この身体に具わった機能(道具)は特別なことが一つもなく働いています。 
 飾り付けや行う事柄は新年のものに違いなく、国旗がはためく様子だったり、お正月の花が生けてある様子だったり、ストーブの上のヤカンにお湯が沸く音だったり、様々なものに触れて変化しながら、新しいということすらない、そんな活動をしています。
 お正月は確かに特別なことに違いないのですが、そんな特別なことの中身は、実は極々当たり前のことばかりなんですね。

◆任せる(2)

 本文
 
 眼はものが見えるように出来ている。耳は音が聞こえるように出来ている。鼻は香りが分かるように出来ている。舌味がするように出来ている。身体は感触がするように出来ている。意、つまり心はものが思えるように出来ている。
 それを全部、それ自体の働きに任せておく。自分で自分の好き嫌いで使うことをしないのです。すべてがその通りにあるだけです。それが修行の着眼点です。 
 今ある、そのものによらなければ、そのものは絶対に分からない、という基本的な勉強の仕方を忘れているんじゃないですか。
 自分自身というものを本当に知りたかったら、自分自身に向かう以外はない。古今東西の聖人たちが必ず歩んで来た道です。

 提唱
 
 年明けからあっという間にもう3月です。季節はすっかり春。お彼岸の月を迎えました。
 仕事柄、声を出すことが多いのですが、50歳を過ぎると、その日の調子によって、自分で思っているように声が出にくかったりと、ムラを感じるようになってきました。
 プロの歌手の方は、喉や体調の管理に随分と心を配っておられるのでしょう。年齢と共にそうしたケアはますます必要になってくることでしょう。
 もう少し若い時分、声が出にくい時、無理しても声を出そうと頑張り、苦労をした経験があります。その時は気が付かなかったのですが、知らないうちに、自分が思っているようなものと比べて、それとは違うものがそこにあると、自分が勝手に気に入らないものと思って苦労していました。
 あるとき、自分の声に自分自身が気が付きました。自分の気に入る気に入らないという思いと関係なく、必ずそのときその通りに出ている。そのことに出会って、お腹の奥の方の変な力が抜け、スッと心も体も軽くなりました。不思議なものです。事実はその通りにあるだけです。
◆本来の面目(1)
 
 本文
 
 気に入るものもあるが、気に入らないものもある。あるということは、どちらも問題にならず自分のところに現成している。 迷おうとおもうても迷われんように出来ている各自の今の在り様です。それ程はっきりした確かな道があるということです。
 ところが長い間の悪習慣があって、一念心というものがチラッと動くと、それに依って考え方に落ちる。 
 それだけ立脚地が違うということです。凡聖の分かれるところです。
 事実は同じ生活、同じ生活者。自分自身の全身を挙げての必然性に任せて、必然性の良薬をおあがりなさい。そうすると必ず救われる。
 それが仏教の教えです・・・

 提唱
 
 「令和」という時代が始まりました。いつの時代も良いこと悪いことがありますが、最近の様々な出来事に不安を感じずにはいられませんね。
 先日、郵便局である事務手続きを行ったときの話です。金融機関はいろいろと煩わしいことが多くなりましたが、特に法人や任意団体等はなかなか簡単ではありません。
 その日も1時間半以上待たされて、まだ窓口の向こうでは何やら慌てた動きが。明らかに何かミスをしことは素人目でも分かりました。
 窓口で担当した女性は現場から姿を消し、代わって他の職員が作業を始めました。一体何をしているのかの説明もなく、対応の悪さにいい加減嫌気が差しました。
 待たされるのは誰しも好きではないとは思います。人の感情から物事を見ると、気に入らないことは際限なく現れます。一方、自分のこの身はいつでもこの身のあるところと親しく、人の動きも目の前にあるポスターもただその通りにあり、待たされているという争うような気配は少しもありません。 
 必然性という良薬は、人の好き嫌いに関係なく 、服する者をその患いから救ってくれるものです。

◆本来の面目(2)

 本文
 
 自分に持ち合わせておる五つの機能、如実に活動する五つの機能、目、耳、鼻、舌、身、五つの器官を通じ確実に残りもののない活動をしている実物を本当に見てもらう。考え方を捨てて。考え方と事実との違い。誤りを起こす根源は、人が気に入る入らんに関係なくあるその事実から離れて、考え方の上で事実を眺める。あるという事は、みな自分の消息です。
 初めて聞く、その音が、今、自分のところに直にある。実に微妙な、すばらしい人の本来の面目です。
 こういうことは、考えることでも、理解することでもなく、今の各自が触れている事実、その実証が欲しいのです。

 提唱
 
 玄関を出たところの草むらで「リーン・リーン」という綺麗な音色が聞こえ、ふと出かける足が止まり、心を奪われました。子供の頃、鈴虫を飼ったことがありましたが、まだこんな近くで野生の鈴虫がいることにうれしくなりました。
 鈴虫の鳴き声が聞こえるというと、普通には向こう側の鈴虫のこととして私たちは認識しています。しかし実際には、この身体の機能を通して、例えば聞こえるということは、耳の機能を通してその事実に触れます。実は私たち自身の消息です。鈴虫が鳴いていたね、と言うと一応に皆さんは理解も想像も出来ますが、この文章からその音色は聞こえないように、鈴虫の鳴き声は、その音色が奏でられているときにしか触れることが出来ないよう、この身体の機能は出来ています。しかも、前の音色がどこかに残るようなことがなく、今の音色だけがちゃんと聞こえる。
 これは私たちの身体に最初から具わっている基本の働き、機能です。そこを離れ考え方で扱えば、今、事実としてないものまで取り上げて、何が事実なのかがはっきりしなくなります。
「リーン・リーン」事実はこれだけです。

◆心頭を滅却すれば(1)

 本文
 
 「ドン」これが皆さんの命の根源です。これが分かるといいんです。
 何も知らんものが(人の誕生)、知らんなりに、知らん世界にゴロッと出てきたら、出てきたまんまに、いきなり環境と共に否応なしにひとつになって(同化して)動くように出来上がっておる。それが人の真相です。
 生まれながらに出来上がっている大道としての働きを、本当に我がものにするには、長い間苦心したとか、今初めて聞く人であろうが、「ドン」この音を聞くのに、時間も経験も老若も新旧も全く関係ない。一様にみなコロッとそうなる。そんな確実な道がある。

 提唱
 
 令和二年を迎えました。本年もよろしくお願い致します。
 元旦の朝、年末までの暖かさからすると少し冷えましたが、お正月らしい寒さが戻って来て何故か安心しました。年が改まって、多くのお詣リをいただきご挨拶をさせて頂きました。
 毎年、本堂には大きな壷に花が生けられます。臘梅、松、椿、千両などといった花材で生けられる花は見応えがあります。
 そんな花を見ていると、確かに向こう側にある花に違いないのですが、こちらで見ている私も向こう側の花も無くなって、だだ生けられている花の姿があることに気づきます。私と花は元々別々のものとしてあるものではないことが、私たちの真相です。
 向こうのものだ、環境だとか言って、こちらを中心に物事を測ればそうなりますが、そんなこと言っても、我が身はそこにひとつも線引きをすることなく、一緒になって生活しています。分け隔てをするのは人の見方や考え方。
 あちらのことだと言っても、そこには必ず私が親しく関わって、あちらの様子も何もかもちゃんと私のものとして戴いています。
 好き嫌いを言うのも、向こうのものとひとつになっている証なんです。

◆心頭を滅却すれば(2)

 本文
 
 それを仏道というのです。生まれながらの必然性としてのものと、後天的な修養に依って得られたものと、そのきわが出来るんです。
 そこに本当のものと、偽物といったことが伺われるところがある。
 坐禅をするということは、自分の考え方で一切細工をしないことです。細工をしようとする、それを一切止めることです。
 「ドン」机を叩くと、そういうことがいきなり在るということです。このもの(自己)が、そのようにコロッと、人の考え方を飛び越えてコロッとそうなる。いつでもそうです。「心頭を滅却すれば、火も亦涼し」というのもそうです。熱い時に熱いということです。誰が熱いと言わせておるか、人がいないんです。

 提唱
 
 日本でも新型コロナウイルスの感染がまだ広がっています。それに伴って様々なことが言われ、正しい情報と正しくない情報が流れ不安を招いています。心ない人のデマは不安を一層あおる結果となっています。 不安とは何処にあるのでしょう?現在で言えば新型コロナウイルスが不安の原因となるのでしょう。しかし、不安は人の内側で起こるもの。例えば注意を促す各局の報道を元に、ああではないか、こうではないかと、それぞれが勝手に想像をして必要以上の不安をつくり出しています。不安とはそうして人の中で増幅されていきます。
 一方、私たちの生活は必ず自分のこの身のあるところで行われています。そこのところは実に不安のない生活をしています。風に吹かれたら吹かれたように、冷たければ冷たいように、必ずそこに寄り添って、それ以外のことがないように過ごしています。
 最低限感染拡大に対して気を付けなければならないことはありますが、まずは個々が自分の生活をきちん見ていくことが必要です。
 「心頭を滅却すれば火も亦涼し」不安を相手にし始めればきりが無いですが、不安のないところに触れれば落ち着きます。「涼し」とは「親しい 」という意味です。
◆迷われない

 本文 
 
 「どうしようか」「こうしようか」と悩んでいる、と。それは通常迷っている、悩んでいることだ思っている。そうじゃない。少しも迷っていない。そういうことを知ってもらいたい。「どうしようか」という時「どうしようか」ということがあるだけ。「こうしようか」という時「こうしようか」ということがあるだけです。
 いろいろその先のことを考える。迷っているんじゃなくて考え方の中にいるだけです。考えの中で生活しているだけです。迷っているのではない。
 これからやることがあるから考えるのであって、やらないんだったら考える要はない。「石橋を叩く」という話がある。あれは渡る為に叩くんです。渡らないのなら叩く要はない。
 今の自分の在りようです。考えとしての動き、その動きに教えられればよい。動きとしての事実に教わればよい。その動きに対して考えが動き、考え方で取り扱うのが人の常。「痛い」ということ、「困ったな」ということがあっても、それに迷うということはない。

 提唱

 新型コロナウイルス感染症により自粛を余儀なくされ、今なお多大な影響を及ぼしています。 
 自粛とは「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」。この自粛の「自」には「みずから」と「おのずから」という読み方があります。
 「みずから」はその意志の主体(自分)があり、その主体によって進められる。主体が自らを省みて態度を改めていく。本意でなければそこに不満が生じる。
 一方、「おのずから」は「物事の成り行きや自然の道理に従って自然にそのようになる」ということ。ここには主体は要らず、その意志も要らない。それはまるで、水のように四角や丸に自然に形に添うように。水面に映った月が、波打つ時は波打つように、静かな時は静かに揺れるように。それでいてひとつも不自由はない。
 自粛とは本来「おのずからつつしむ」ということ。私たちは、いろいろ考えたり思うことがあっても、一つずつしか考えたり思うことができないように出来ている。いっぺんにいろんなことが出来ないようになっている。「おのずからつつしむ」ということが自然に実行されています。
 もう一つの今はないのように出来ています。

◆坐禅の本質
 
 本文 
 
 坐禅をするということは、どういことをするのかといいますと、一切のものを無条件で、そのまま受け入れて、なんともない人になるんです。それが坐禅の本質です。
 考え方で、あぁのこうのと言っていれば切りが無い。それじゃからそん
なものを一切問題にせず、問題にしようとする主体を離してしまうのです。
 問題にする主人公、それを離してしまうんです。そうすると、縁の如何を問わず問題にしなくなる。 
 相手の世界を問題にしなくなる。相手の世界が問題にならなくなるだけ自分自身の真相が明らかになってくる。 そうすると、只、そのことがそのこととしてあるのみであって、それが人と言われておる私たちの実体である。

 提唱

 長い梅雨、そして猛暑。ようやく最近朝晩が少し暑さが和らいできました。
 そうこうしていると今度は台風の季節。心配事は尽きません。人は大自然の前ではどうすることも出来ません。今近づいている台風の被害が最小限であることを祈るばかりです。
 確かに、被害を想定した準備をすることは私たちには出来ます。しかしそれだって安心は出来ません。
 越後の良寛和尚の句にこんなものがあります。
 
 災難に遭う時節には
 災難に遭うがよく候
 死ぬる時節には
 死ぬがよく候
 是はこれ
 災難をのがるる
 妙法にて候
 
 今起こっていることは、人間があれこれ思っても変わる訳ではない。むしろ、あれこれ思った分だけ苦しみが生まれる。人にとっての本当の災難は、その出来事(相手の世界)を自分の中でなんどきまでも問題にすること。 
 事実は必ず事実としてあり、最初から善し悪しがあるわけではない。人が動けば動いたように事実もまた留まっていない。
 相手の世界というものといつでも一緒になって、それでいて、ひとつも痕を残さないのが事実。
◆意が止む(1)

 本文 
 
 本当に妄想が止みますと、縁の如何を問題にしなくなる。相手の世界を問題にしなくなる。相手の世界と思っていたものが相手でなくなる。それだけ自分自身の真相が明らかになってくる。
 そうすると、只そのことがそのこととしてあるのみであって、それが私達、人といわれておるものの実体である。 
 人間の考え方がどうであろうと、否定しようが肯定しようが、そういう考えに全く関係なく事実がある。
 人とものとの関係において、いちいち、ものが現れ、現れては消え、消えては現れる。その様子が分かる。

 提唱

 今年も残すところ僅かとなりました。一年間お世話になりありがとうございました。
 コロナ、コロナの一年でした。最近はまた感染者が全国的増加し続けています。年末年始をどう過ごすのか、ひとり一人が自覚を持って向き合うことが必要です。
 しかしながら、感染の恐怖やいつ収束するのか分からないという不安。先が見えないということは本当に人を困惑させます。困惑は更なる不安を招きます。
 見えないものを相手にすると、人は勝手に自分
の中に事実とは違うものをつくりだします。そうしてつくりだされたものをまた相手にして、更なる妄想が増幅されます。
 先は見えなくとも、今生きているところのことは必ずある。今の事実は失われることはありません。たとえ風が吹こうが、雪が降ろうが、今ある事実は人を困惑させることがありません。困惑するのはいつだって人の考え方や捉え方のほうです。
 世の中がどうであろうと、世間がどう考えようと、今、一輪の花を前にするのであれば、そこが紛れもなく自身の生きているところ。善し悪しを言う前に、その事実に触れてみて下さい。そこから本当に必要なものが明らかになる筈です。

◆意が止む(2)

 本文 
 
 人間の従来の考え方を持って自分を守っておるということは、それだけ道から離れておることなのです。
 五感(眼、耳、鼻、舌、身)というものは正直なものですから、その縁を縁のままに受けるんです。ただそのまんまに受けられるようなところまでゆけば大丈夫です。
 ところが、私共はそこまで本当にいかんのです。縁に触れると、それにすぐ心がついて動いてゆく。そういう憂いがある。そういう点を大いに警戒しなくてはならない。
 人の為に何か言いたくてしょうがない、やりたくてしょうがないという、そういう気持ちが先に立ちますと、いきおい自分の修行はできなくなる。

 提唱

 境内の河津桜も葉桜へと移り、また山門の山茱萸が満開となり、これから本格的な春が訪れようとしています。
 季節は留まることなく移り変わっていきます。
 人の考え方は、あの時はこうだった、あの頃は良かったというように記憶と戯れ、またこれからどうなるのか知りたがり、未来への希望や不安に足下が疎かになります。
 私たちのこの身はいつも正直に、今あるものと触れあって生活をしています。その時のそのことだけです。
 ここが修行といわれるところの要点です。
 ところが、人というのはおかしなもので、それではつまらないと思う。人の考え方がそう思わせる。
 つまらないというのは相手にあることではなく、こちらにあるもの。
 満開の桜だけが人を満足させる訳ではありません。満開の桜だって、この身をそこに置かないとその素晴らしさは知り得ません。
 桜を見に行ったということに満足しているのであれば、それはやはり考え方の生活なのでしょう。
 これから桜の季節を迎えます。色や形、その実物の素晴らしさに出会うのはいつでも、この身が事実生活しているところです。
◆不思量底(1)

 本文 
 
 「兀兀(ごつごつ)として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ即ち坐禅の要術なり」(道元禅師 普勧坐禅儀)
 「兀兀(ごつごつ)として端坐すべし。此に於て箇の不思量底を思量す。如何が思量せん。謂く非思量、此れ即ち坐禅の要法なり」(瑩山禅師 坐禅用心記)
 道元禅師は坐禅の要術と示され、瑩山禅師は要法と示されておりますが、いずれにせよ、「坐禅をされる中で最も重要なこと」と受け止めて下さればよい。

 提唱

 曹洞宗の宗旨は「仏祖単伝の正法に遵い、只管打坐、即心是仏を承当すること」と明記してあります。
 このことが一番重要なことであるということです。しかしながら、今やご葬儀や法事などの儀式や、寺院運営にばかり力を注ぎ、大切なことをどこかに忘れてしまっている寺院が多くなりました。
 私は出家してお坊さんになったのであって、寺院運営をする為の後継ぎになったのではありません。
 確かに、お寺というところに住まわせて頂いている以上、その管理運営も放っておく訳にいきません。
 お坊さんとは何なのかというところに恒に立ち戻らなければいけないと思っています。基本を忘れて日々の生活に追われてはいけないということ。
 両禅師がここにお示し下さっていることは、最も尊重すべきこと。ただ言葉の上の言い回しではないということ。
 ご葬儀や法事もこの内容によって行われ、このことが根本にあるということです。
 お寺を護って下さるお仲間をお檀家と言い、そしてそのお檀家とそのご先祖が安心して過ごして頂く為にある共有の存在がお寺です。
 お寺は誰の為にあるのでしょう。誰のものなのでしょう。そのことにもう一度立ち戻る必要があります。


◆不思量底(2)

 本文 

 坐禅というものを正しく伝え、実践してもらっているかというと、はなはだ、おぼつかない気がします。一番大切なことは、坐禅中(日常の生活も)どのようにして過ごしているのか、そこを大事なこととして伝えてゆくかです。
 坐禅堂での作法や、姿勢、息の整え方等を学んで、一応形もでき、静かに坐って、それで終わりでしょうか。こういうところを自分のこととしてよく見て下さい。
 人の機能が機能として純粋に活動している、今ある事実が事実のまま、それに思いを起こさずにいる時の自分の在りように、きちっと目を向けて、その事実を見逃さないようにしているということが不思量底を思量するということです。そこを間違わないでいただきたい。

 提唱

 暑い暑いと言っていたのに、いつの間にか彼岸花の芽が出始め、日は随分と短くなり、虫の声が賑やかさを増している。季節の移り変わりを確かに感じる情景だ。
 季節を感じる花や音、味わいや香りは人それぞれの感じ方があるであろう。日本語の美しい表現はそんな感じ方の違いから生まれたものであろう。
 そして、そのどれもが自分自身と密接に関わっている。言い換えれば自分のこの身が無ければ感じ得ないことである。
 人の多くは、ものごとは自分の外側にあるものとして捉えている。しかし、見える、聞こえる、味わうなどどれを取り上げても必ず自分自身の内容に違いない。人の機能としての働きである。
 その働きは、この身体だけが在っても機能せず、ものごとだけが存在しても機能しない。互いに触れあって初めてひとつの働きとなる。互いに無くてはならない存在である。
 互いに無くてはならない存在ということは、互いに争うことはしない。だから赤いものは赤く見え、蝉の声は蝉の声として聞こえ、甘いものは甘く感じる。
 互いに争わない基本的な働きを生きているという。「不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり」と。道元禅師が著された普勧坐禅儀の一節である。この非思量とはまさに私たちの基本である。
◆不思量底(事実に教わる)

 本文 

 テレビの声が聞こえる。そういうことが自分のところにある。どうしたんでもないのに聞こえている。それが不思量底なんです。
 あなたの考えに何も関係ない、考え方で声があるんじゃなく、考え方を飛び越えた事実が「今」ある。その事実に教わるんです。今は自分を認め、相手を認めた上の生活。もう少し本当に勉強していただくと、相手の世界というもののない生活があることが分かってくる。
 「今」ある事実に触れてゆくことにより、相手の世界がなくなってゆく。
 五感と環境の働きは、必然に考え方を飛び越えた大きな働き方をしている。この作用は無限に活動を起こす。
 「今」のその働き、そのものに教えられておいでになると、自分のあることも何も彼もすっかりなくなって、分からんほどにすっかりものと一如になって、一如になったことも知らずに生活しておる。
 そうしたところに、図らずも縁によって、その真相が手に入るんです。

 提唱

 新年を迎え、七草そして成人の日が終わりました。時は刻々と過ぎてゆきます。カレンダーを見、時計を見、朝が来て、過ぎ去ったことを見て時を感じています。
 しかし、実際に「時」をこの目にすることはありません。時計が刻む秒針を見ることはあっても、「時」自体が見えている訳ではありません。
 「時」は自分とは別に流れているわけではありません。実際にご自分の生活に眼を向けてみて下さい。
 「今」と言っても「今」という「時」があるのではなく、その「今」の内容は、見えることや聞こえることがあるだけ。しかも、見えることや聞こえることでさえ自分とは別のものではありません。
 不思量底とは、相手の世界と自分の世界という隔たりを越えて生活している私たちの実生活のこと。
 向こうのことと認める前に既に自分といっしょになっている。いっしょになっていることすらないほどに実生活に添ってみる。
 実生活は必ず教えてくれます。人があれこれ考えを起し問題にする以前の姿を示してくれます。
 考え方を起こした後の世界を考え方で解決しようとするところに、人の大きな過ちがあることお釈迦様は確かにお示しである。2月15日はお釈迦様のご命日。合掌し礼拝する由縁である。

◆色即是空 空即是色

 本文 

 人がものを見たというてみても、物があるというてみても、変わったことがあるんじゃない。
 自分以外のところに、カレンダーがあったり、山があったり、花があったりいろいろある。
 全部よそのことのように思える。いつからそうなったのか。分別がそういうふうに見させているんです。それは分別の世界の話です。
 分別が止まると、一体感として、ただ自分の動きとしてのものなんです。
 もの、そのものながら自分の様子であり、自分の様子は、直にものの様子である。
 そういうようなことは、考えることではない。
 眼があって見えるのか、ものがあって見えるのか。

 提唱

 境内の河津桜が七分咲きくらいでしょうか。今年も綺麗に花を付けました。
 花を見るということは不思議なものです。あちら側の花のことでありながら、同時にそれは必ず今生きている自分自身の内容でもあります。
 どこからが花のことで、どこからが自分のことなのか、花と自分との境界も無く、あるのはただ花が咲いていることだけ。
 自分と他のものという分別はいつ生まれたのでしょうか。知らないうちにそのように分け隔てをするようになった。無明と言われる所以です。
 そこに花だけがあってもその姿は現れず、この身がそこに関わって初めて見えるということがあります。どちらか一方だけでは成り立たないもの。
 そういう親しい間柄であるのに、何故か向こう側のもののように扱う。何故かこちらとは別のもののように思う。
 そこに修行として一番大事なところがある。向こう側とこちら側を認めた上からの修行は間違い。それは人の思いや考え方で扱うから。考え方にいくら手を付けても、肝心の自分自身はそのまま。だから解決しない。
 花と自分と言っているのに、その親しい在り方、兎の毛ほども隔てのない在り方、そこに眼を向けてみて下さい。自分も花もそうした境も何もかも無い。大安心ということすら無いほど大安心です。
◆色即是空 空即是色(2)

 本文 

 そんなことは人間が後からいらん名前を付けてみただけの話です。
 全てあるということは、自分の眼に映っている内容でしょう。自分の眼に映っているものを認識しているだけでしょ。
 ものと一つになった経験のある人は、しっかりと観て下さい。一つになったということが分かる時は、少なくとも残念ながら二つなんです。
 一つになったことは事実なんだけれども、一つになったということも消えてしまうんです。そこまで行かんと相手(対象)が残る。後で気付くことですから。気付いた時に初めて、一つの時には一つということもなく、見ていた自分も、ものも出てこない、全くない。問題になるようなことが全くない。


 提唱

 新型コロナも落ち着きをみせ、コロナ前の日常を取り戻しつつあります。 しかしながら、今日まで医療従事者やその他関係各位の大変なご苦労とご尽力があったからこそ現在を迎えられていることを忘れてはならないと思っています。
 その一方で人災と言えることも多かったように思います。様々な情報や噂、そうしたものに右往左往し随分と不安な思いに苦しめられました。
 しかし、よく見ればウイルスは感染こそしますが、ウイルス自身は少しも騒いでいません。騒いでいるのはいつでも私たち人間。
 ここに私たちが学ぶべきことがあるのだと思います。余計な考え方を起こせば起こすほど、騒げば騒ぐほど、本来安心して暮らして行ける場所を持っていながら、そこには目が向かなくなる。いつでも目の前のものといっしょに過ごしているにもかかわらず、そうしたことは上の空。
 人は時に考え方を大事にします。でも実際に生きている内容は考え方で生きている訳ではありません。事実、考え方の前に既に生きていることがある。
 ものと一つになるということは、まさにこの身が生活している真っ只中のこと。 
 「当処は常に湛然なり」この身のある処は、いつでも人を困らせるようなことがなく静かなんです。


◆心の定義

 本文

 自分で決めた心じゃ駄目なんです。自分の中で思われる働きを心だと思っていないか。それは自分がつくった心に対する定義です。
 お釈迦さまはじめ、悟りを開かれた方々が言っておられる心に対する定義というものを把握しないとズレが生じる。 
 同じ心というものを言っていても共通理解ができない。仏祖方が言われる「心」ということは、本堂に行けば行ったように、柱に向かえば向かったように、お経の声に接すれば接したように、寸分のズレも間違いもなく、必ずその通りになる。
 それを心と名付けておられる。自分を抜きにして一切は存在しない。己の全活動であって他の活動は一切ない。その全活動を心というておられる。

 提唱

 仲秋の名月を迎え朝晩は随分秋らしくなって参りました。
 季節というものは移り変わってゆくものとして私たちは捉えています。夏が過ぎて秋に至るというように。しかし、実際には移り変わってゆくその様を見たことがありません。あるのは今ある情景だけ。過ぎ去ったものもなく、どこからか来た気配もなく、只この季節のみがいつでもあります。
 私たちは繋がりとして見る癖があります。夜が過ぎて朝になったと。でも、私たちのこの身はとても正直で、夜のときには夜しかなく、朝のときには朝しかありません。前のものから移り変わったなどという持ち物は一切ありません。
 ここに、人が思っている「心」というものと、仏祖方が言っておられる「心」というものの違いがあります。人が思っている心は前後をつくり、過去、現在、未来などという流れをつくって、そのつくったものを眺めては比べて評価して右往左往しています。
 一方、仏祖方の言っておられる心というものは、うそ偽りなく正直にこの身の活動のみ。しかもその活動は眺める自分らしき人を外に置かず、いつも共にそこにある。だから、ズレることも比べるようなことが並ぶこともない。そのことがそのまま自分自身の全活動としてスッキリしている。迷う種がない。



◆解脱(1)

 本文 
 
 解脱をする上で、自分が物心ついた時点で、この身心を、「自分である」と知らずに思い込んだということ、これが一番のガンなのです。
 その思い込みというものが、今の考えをもってしては、どうしてもけりがつかんものです。
 なぜかといいますと、認識それ自体の活動が、そのものの根底、根源を知らんのです。心自体が、自分の心自体の本性を知ることができないのです。どこまでも分別で分別を処理しようとする範囲ですから、法としての存在である自分を見ることはできないのです。そこに大きな問題があるのです。
 それで・・・ 

 提唱

 クリスマス寒波。各地で大雪に警戒とのニュース。朝一番の水の冷たさが嫌な季節です。
 「冷たい」というのはいったいどういうことなのでしょう。確かに水自体の温度のことに違いありませんが、手に触れるまでは冷たいということはありません。手に触れた瞬間冷たいと感じます。それは、一方では水のことだと思っていますが、一方では手の感覚でもあります。どちらか片方だけでは「冷たい」ということは成り立たず、お互いが触れ合った時に現れることです。
 しかし、一般的には「向こう側にある水が冷たい」そのような片側からの見方が正しいと思っている。
 ここに、自分と他を分けた思い込み「物心がつく」という迷いの根源がある。
 人の思いは不思議です。良いと思えば大切に扱い、悪いと思えば粗末に扱う。皆向こうのもののことだと思ってしまう。しかし、良いといって良くなるのか、悪いといってものが変わってしまうのか。もの自体はひとつも変わらないのに。扱っている自分でさえ、良いといって、ものが違うものに見える訳でもなく、悪いといって、ものが粗雑に見えることはない。純粋にそのものとの触れあいがあるだけ。
 自他を分けた「分別」という見方からは、元々私たちが持っている純粋な働きは中々見えてこないものです。


◆解脱(2)

 本文

 それで、本当に人の見解から一度離れてしまってみると、初めて分かるのです。
 その時の状況をチラッと話しますと、一切の人間的な見解というものを忘じ切って、自他の関係もなにもかも本当になくなってしまうということが、必ずあるものです。
 その自他の関係を忘じ切ってしまった状態においての生活が、わたくしどもの平常こうして行われておるときの状況です。ですけれども、一度、自己を忘ずるということがないと、うなずけないのです。


 提唱

 先日、根本山にある倉田園というところへ開山忌のお供えを買いに行きました。お檀家の方に戴いた苺が美味しかったことが理由ですが、そのお店の前に河津桜があり、その枝振りと花付きは他にはない立派なもので感動しました。  
 花が見られるということは不思議なもので、今年の花が在って、そして今の我が身が在って、共にそこに在って初めてそこに花が咲くということがあります。そんな当たり前のことですが、そこが心底大切なものと頷けるかどうかが重要なところです。
 一度、今知っている人とものとの関係を忘じてしまわないと見えてこないものだと言われている内容です。
 それまではやはり、こちらに自分が居て、あちらにものがあるという隔たりがあって花を見ています。私がそこを去っても花は変わらずそこに在ると思う。去年も咲いていたに違いなく、来年もまた花を付けると思っています。しかし、それは人が思っていることであって、実際に花が咲くということと違います。
 昨年まで私はその桜を知らなかった。知らないということは在るとか無いとか、ということすら無い。記憶に残っているとしても、実際に花がそこにある訳ではない。
 花と我が身、どちらもここにあって花は咲く。それは人生に於いて最も美しく咲く花となります。
◆本来空

 本文

 我見(がけん)をこれから離れるのではない。
 我見の起こる前があって、その前が自分の真実です。それが本当の私どもの心の在り方です。
 我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。
 空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。 それが「道(みち」です。それが坐禅の一番大切な様子です。

 提唱

 紫陽花の花が綺麗な季節です。早く咲き始めたものはもう茶色がかって花の時期が終わろうとしています。
 美しく咲いているものも花、枯れてきたものもまた花。甲乙を付けるのは人であって、花の咲いている様子はふたつと無い。ただその時の様子のみ。
 私たちの生活も同じく、昨日もあれば今日もあるのではなく、本当に今こうしているところだけ。
 それなのに自分に気に入るとか気に入らないという甲乙を起こし、気に入らなければそれを変えようとまた考えを起こす。
 我見とは正に人の考え。考えの上のもの。色も形も無く触れることも出来ないもの。
 美しく咲いたものがやがて枯れてゆく。それは人の考え方。
 美く咲く花を前にして枯れた姿が見えるのか。枯れた花を前にその美しかった姿がそこにあるのか。そこには人の考え方が差し挟まる余地はない。
 考え方の前にその事実がある。人があれこれ思ってもその事実は揺るぐことはない。誰もがそうした道の上にある。「我見」も「空」も「私」も「花」も「美しい」も「枯れる」も皆あとから付けたもの。付ける前の様子が必ずある。
 そのことがあるからこそ、人は本来確かに自由であることが証明される。それを「坐禅」と言い、また「仏道」と言う。


◆修行の眼目

 本文

 人は知らずに生まれてきている。それが基本です。知ったから生きているんじゃないんです。知らずにいきている自分があるのです。
 それが本当の人の在り方です。それは永遠の在り方です。
 そういう永遠の在り方そのものに徹するということが本当に必要なんです。
 徹するまでは「わたしが」という人間を認めておったんです。その苦しみを逃れる要件を見つけて、それを土台にどうにかしようとする。
 これは人間的な影が残っているのです。そういうものがすっかりなくなってしまうものです。

 提唱

 昼間はつくつく法師が静かに鳴き、夜は虫の音が賑やかに、秋らしさを感じております。
 その虫の声ひとつを取り上げても、聞こえてくることが先にある。聞こうと思う前に既にある。既に私のものとなっている。
 その既にあるものに対して人があとから「聞いた」とか「聞こえた」と言ってまるであちらの虫の声のように取り扱う。 本当は知らないのでしょう?いつ聞こえたのか。聞こえたものは何処へどうなったのか。
 人が取り扱えばいろいろと言い分がある。でもそれはもう既に終わったもの。影も形もないもの。 その取り扱いをどれだけしても、取り扱いはあくまで取り扱いであって、実際の虫の声のことではない。
 では本物の虫の声はどこにあるのか?それは言わずと知れたこと。虫が鳴いているときだけ。自分のものとなっているときだけ。そこに修行の眼目がある。
 先日、とある医大生から「このお寺に来る皆さんは、どんなふうに手を合わせているのか?」という質問があった。その子にはおばあちゃんがいるとのこと。「おばあちゃんはどんなふうに手を合わせているか聞いてごらん」と。大切な人を亡くした人とそうでない人。みな違う。「あなた自身はどんなふうに手を合わせているのか?」その時その人にしか現れないものがあるはずと。
◆修行の眼目(2)

 本文

 それですから古人が、歌にこういっている。「主なくして、見聞覚知する人を、生き仏とは、これをいうなり」主人公はおらんのです。「身の破れ、果てたるときの心こそ、実に万法一如なりけり」
 六根、六境の働き、一切詮索することをやめて、ただ機能と環境との関係にうち任せる。
 法性というものは、法の性質です。法といわれるものは、もともと場所も位置もあるんじゃないんです。空寂です。本当に何も存在しない。
 修行の眼目は、生まれながらのこの本来の相(すがた)に接することです。
 参ずるということは承る。自分自らがそれに承当する。自性に徹することです。徹しているものを妨げておるものが、人の心意識です。その心意識を用いることがなければ、そのものはいつも徹しておる。

 提唱
 
 水仙が一輪咲きはじめました。冬の庭を彩る花です。
 落葉樹はほぼ葉を落とし幹と枝だけの光景は寒い季節を迎えた感じがします。
 「枯木龍吟」という言葉があります。一般的には「一度衰えたものが再び勢いを取り戻す」という意味。       
 しかし、「枯木」とは人の認識、見解がすっかり無くなったことを表しています。今まで自分が自分の認識や見解で物事を見ていたが為に、自分を苦しめたり不自由にしてきた。その認識や見解が何処にもない自分自身の本来の様子に触れて、龍が天を飛び廻り吠えるが如く自由へと解き放たれたようすのこと。
 この体の機能(見える聞こえる思える等)と周りの環境(物や人や出来事)との純粋な関係に任せる。 例えば、色や形に呼び方を付けていますが、元々色や形には名前はありません。後から人が付けたもの。だから物の方からそういう声は聞こえません。とても静寂です。 でも、いつの間にかそうした色や形といった認識でものを見るようになった。それで一度、生まれながらの本来の相に触れると、自分といっても色や形といっても、皆人の認識の上で問題にしているのであって、この身も周りのものも至って空寂なんです。
 「茶碗は茶碗にあらずしてしかも茶碗に他ならず」これが分かるとハッキリするんです。

◆説法(1)

 本文

 説法というのは、人のことを聞くんじゃないんです。自分のことを自分で味わう様子が説法の様子です。
 それですから「本性の理」というんです。「本性の理」というのは、決して人の鼻を借りて呼吸をすることはできないんです。各自人々分上、自分の鼻で自分で呼吸しておる。 だから、どのようなことが、どのように起こってみても、決して他人のことじゃないはずです。私が話しているようなんですけれども、その実、私の声があるということは、各自、ご自分の様子です。

 提唱

 あっという間に3月となりました。お彼岸の月を迎えました。
 日曜日の朝の坐禅会にみえている方の中、先日「皆さんは普通に頷いていますが、私はまだ頷けるところが分からない」というお話をしておられました。早く何かを得たいというのは人によくあること。
 ここでいう頷けるということは、人の話しを理解するということではないんです。自分自身のことを自分自身で味わうということなんです。   だから、分かるとか何かを得るという話しではありません。  
 その方にお話しをしたのは、自分という畑を先ずはちゃんと耕すこと。坐禅という坐るという鍬で一振り一振り耕し土を養うこと。
 考え方で堅くなった土を養い柔らかくする。例えば、あちらに人が居るとあちらの人のことだと思う。けれども、本当は皆自分の内容。あちらの人が見えるのも、あちらの人のことだと思うのも皆自分の様子。
 そんなふうに、焦らず、ゆっくり、一呼吸、一動作を丁寧に、自分自身の様子を自分自身で耕す。
 今まであちらの様子だと思っていたことが、本当に自分の様子として味わうことができる。頷くことが出来るんです。
 頭で知ろうとする人は一足飛びに収穫しようとします。本を読み知識を集めるても、それは耕すこととは違います。ちゃんと耕すことをせずして良い作物はできないものです。
◆説法(2)

 本文

 法それ自身が、法それ自身として活動しておる。大道それ自身が大道それ自身として活動しておる。命をかけての大問題です。自己を忘じ切ったところにおいて、自己なくして行われる様子がある。 私が手を打てば「ポン」、どうしても、みなさん、そうならなければならんようにできあがっておるんです。
 それが本来の面目です。すでに是の如く他に行き場はないんです。そうなりたい、それが問題です。修行において長い間の苦労というものは、ただ、この一念、そうなりたいと思う念が起きたために、どうにもならない状態であったということです。

 提唱

 今年も半年が終わろうとしています。お盆の季節を迎えます。
 5月中頃、不覚にもコロナに感染しました。初コロナです。朝起きた時は何ともなかったのですが、朝のお勤めのとき肘の関節の痛みに気付きました。そのあとはあっという間に寒気で震えるようになりました。
 病院で検査の結果、コロナとの診断。約2日半ほど39度5分前後の熱が続きました。幸いに喉の痛みや咳はありませんでした。 
 久しぶりの熱と体中の痛み。辛いに違いありませんが、痛いということひとつを取り上げても、痛いという人の思いと実際の痛みは違います。痛いと口にしたり、痛いと思えば思うほどその辛さは増幅します。
 片や実際の痛みに眼を向けてみれば、痛みというその感覚は確かにあるのにそれ以上のことはない。それ以上に苦しめられることはありません。不思議なものです。
 痛みは痛み自体でちゃんと解決済み。痛み自体に問題はありません。しかし、痛いという思いは思いの中に別の思いを生みます。痛みそのもの自体とは違うものになってしまいます。
 世間でいうところの人や物事の評価は、人の思いで見ているもの。そのことが正しいとして疑いさえ持たない。その思いで扱ったものを離さない。 元々問題なかった物事に自分が思いで問題を起こし、それに自分が揺さぶれ更に思いを重ねる。静かにならないですね。

◆大安楽(1)

 本文

 庭掃きをしている時「今、何をしているのか」「誰が掃いているのか」と。分かりきっていると思われることを問われると、本当は分かっていないから、何かあるんじゃないかと念が走る。
 ありのままとか、平常心とか、今が大切とか、言葉を知り、理解しているつもりが、全く判らなくなる。
 この問いは、それぞれ皆さんに問われていることです。  只、今の動きだけがある。それを受ける人がない、自分が立たない、理屈は知っていても自分自身のこととして自問自答してみると役に立たない、全く哀れな様子である。

 提唱

 遅く動きが読めない台風10号の影響で雨が続いています。
 そんな中、車庫の雨漏りがあり、原因箇所の特定と修繕にこのところ毎日屋根に登っています。
 人が何かしている時、その内容に「私」はありません。例えばスマホを使っている時「私がスマホを使っている」ということはありません。「私」など必要ないのです。スマホの画面の内容があればそれだけでいい。それなのに「私がスマホを使っている」という認識の方が本当のように思っている。「私」という余計なものが付いてくる。
 実際に目の前のものを見て事実に学んでみれば分かることです。でもこれが中々出来ない。永いこと認識の方で見る癖が付いているから。厄介なことは認識で「事実」を見ているということ。「事実」に「事実」なんていうものは無いのに「事実」という認識で扱う。
 これではどこまで行っても認識の中。「事実」という偽物を大事にして、本物に触れることがない。 しかし、一方では私たちはいつでも認識を離れた事実で生活しています。知らないうちに「私」など相手にせず過ごしている大安楽な内容がある。自分のことは自分で確かめるほかないのです。 

 事実に 
   事実という
      声はなし

 真実に 
   真実という
    姿なし